光治良は、一貫(いっかん)して教団としての天理教に入信したことはなかったといわれている。
芹沢光治良
それは幼い頃に、父が天理教を熱心に信仰し、安楽な網元(あみもと)という社会的地位を捨てて全財産を教団に寄進(きしん)して、その結果天理教に対して強い不信感を抱いたためであるとされる。
芹沢家が天理教と接触したのは明治二十二年、光治良の祖父(そふ)常吉のリウマチがきっかけであった。その翌年には一家をあげての信仰となった。
明治二十六年には、光治良の父常晴を講元(こうもと)として斯道会(じどうかい)第七六七号議が結成されるも、同年十月常晴が悪性のひぜんに罹(かか)り、この時、常吉夫妻が常晴の身体を神に捧(ささ)げると心決めをして常晴は一命をとりとめた。そして常晴は二十八年に沼津市楊原(やなぎはら)出張所の初代所長になり、自宅に間口(まぐち)四間半、奥行き五間半の教会堂を建てている。光治良は誕生するのはこの翌年である。
明治三十二年、上級教会(親教会)にあたる岳東(がくとう)出張所により教会整理の話が出て、楊原出張所を含めた六教会が沼津連合集談所を結成することになり、常晴は自分が建てた教会堂を供出(きょうしゅつ)することになる。やがて他教会七世帯との共同生活がはじまり、さらに明治三十九年、岳東支教会に住み込むことになる。そしてこの時、光治良は常晴の弟である三吉のところに祖父と一緒に預けられることになる。これが光治良にとっては「三歳の僕が両親に捨てられた」(神の微笑)という回想になっている。
こうした光治良にとって天理教に対する敵意(てきい)は想像するに余りある。
しかしながら、その後、光治良はいくつかの出来事でむしろ常人(じょうにん)よりも深く天理教に関わることになる。
光治良は、妻の病気をきっかけに井出クニが示した奇跡を目の当たりにしている。
それは、光治良の妻がバセドー氏病に罹(かか)った時に、父母とともに井出クニのもとを訪れ、そこで息ふきかけの「お授(さず)け」を受け治癒(ちゆ)したというものであった。その後、昭和七年より十年以上、年に二回、クニは上京すると芹沢宅に一泊したという。
もっとも、光治良自身も大正七年夏にクニのもとを訪れ、肋膜(ろくまく)と胃が弱いことを助けてもらっている。そして、その霊験を帰郷して話題にしたことにより沼津の名士の間では、クニはひとしきり噂になったという。
芹沢光治良文学館より
大正十四年六月十日 白山丸にて、左端は井出クニ
芹沢光治良が29歳の時、この船に乗って40日の航海で渡仏しました。
光治良は海上から、妻の金江は陸路でこの船に入りましたが、井出クニが写っていることは特筆すべきでしょう。光治良とクニは高校時代、祖母とクニの家を訪れた時に出会いました。(『男の生涯』参照)が、忙しい時間を割いてクニが見送りに来ていることを考えると、この頃からすでに見えざるものの思惑に入っていたのだろうかと考えざるを得ません。この二人の繋がりは、後に書かれる『教祖様』に大きく影響します。
http://www.hi-ho.ne.jp/kstudio/kojiro/index.htm