中山みきが予言した救世主

神の天啓(てんけい)を受けた者が、天理教の本部に現れることは、実は中山みきが予言していたことでもあったとされる。

中山みきの「御遺影」(柳生家所蔵)
真偽は別として、和歌山県湯川村大字富安出身の野田新兵衛が明治十八年に、みきから直接「これを私だと思って末永く所持して欲しい」と譲り受けたという由緒書が存在する。

世界の救済プログラムを準備していた中山みきは、自身の存命中それが不可能であることを察知し、自分が現身を隠してから三十年後(天理教祖三十年祭=大正五年)に「おぢば(天理教本部)」に再び現れることを予言していたという(芹沢真一『神様のこと』)。

クニ(親様)は、神から命じられるままに、三十年祭の時に教会本部に現れ、「自分こそ、みきの再来である」と主張した。それはみきの予言を成就(じょうじゅ)させるためであったという。

天理教本部側は、神の人類に対する教えは、みきとその後継者の本部・飯降伊蔵で完結しているという立場をとっており、そのため本部は、クニを強制的に排除したのである。

飯降 伊蔵(いぶり いぞう)1833~1907年
教祖の代理として神業を担い、みき亡き後は、公認の天啓者として20年間にわたって神意を取り次いだ本席。

クニが神の啓示者であり、真の救世主であると認めた者もいた。社会思想家で天理教研究家でもあった大平良平である。大平は、自身の機関紙『新宗教』で、中山みきと本席亡きあと、天理教組織は変質したため、神はそれを是正させるべくクニを出現させたとし、クニを天理教という宗教の枠を超えた救世主として位置付けて喧伝(けんでん)した。クニがみきの後身(こうしん)として現れることは、外ならぬみきが在世時予言していたことであると強く主張していた。


天理教本部側は『新宗教』の影響を恐れて、大平を徹底的に批判する一方で、同書を買い占めるなどの対抗措置をとった。

その直後、大平が急死したこともあって、クニについてはもとより、初期の天理教に関する貴重な情報を記した『新宗教』は、研究者でも目にすることが出来ない幻の雑誌となった(最近、復刻版が刊行)。井出クニの名は、その後、芹沢真一・光治良兄弟が登場するまで対外的に封印されることになった。

みきが予言していた救済プログラムを完成させるために出現した啓示者、それがクニだった可能性も一時あった。

ちなみに、天理教三十年祭では、前述の予言の影響のためか、クニとは別に何人かがみきの後継者として名乗りをあげており、また天理教内にもそうした天啓者を待望する声があった。


仏教には、釈迦が未来の世界の人々を救うために再臨(さいりん)するという弥勒信仰(みろくしんこう)がある。『弥勒下生経』によれば、釈迦の入滅後(にゅうめつご)、五十六億七千万年後に弥勒が出現するとされているが、クニは巳(われ)こそ、弥勒であるという自覚もあったといわれる。クニは以降、天理教の枠組みを超えて独自の道を歩むことになったである。