鏡の諭

食あたりは、吐いてしまはなければ治らない。心の悩みも言わなければ晴れないものだ。

言うということは人に聞いてもらうということで、聞かせてもらうことも大いに参考になる。また、よい助言を与えてもらえるかも知れない。そして悩みが解決することもある。

新興仏教に「円座(えんざ)」といって、数十人が集まりそれぞれが悩み事や意見を交換する集会がある。この会で言ったり聞いたりすることは、百万遍(ひゃくまんべん)の念仏や一巻の経文(きょうもん)より遥かに現世利益(げんせりえき)があるのではないだろうか。


皆さんの前で、それぞれの体験談や諸先輩から聞いた親様の話をすることを「ひのきしん」だと教えてもらった。川口(埼玉県)の寄り所では既に数年前から、三島(静岡県)でもだいぶん前から、おつとめ前の時間を利用していろいろな人が話を交わしている。

東京(葛飾区高砂)でも、数カ月前から鈴木文吾氏の提唱(ていしょう)で、皆が率先して話をはじめた。私どものような求道者には、よい話が伺えて大変勉強になった。

三月十二日三島でお聞きした、青木氏の鏡の話は、私の記憶に強く残っているのでお伝えする。


鏡というものは、昔は「丸い」ものと決まっていた。現在の三面鏡(さんめんきょう)や四角い大きなものは鏡には相違ないが「姿身(すがたみ)」という。鏡が丸いのは「家庭の円満」を表す。また鏡は古来婦女の魂として鄭重(ていちょう)に取り扱われたものである。試しに広辞林の「鏡」の項を開いてみた。

鏡とは、影見(かげみ)の義、ものの形、姿をうつしてみる用器、昔ではもっぱら白の(しろの)と青銅(せいどう)を混ぜて平面円形に作り、水銀を塗って光を発せしめたもので、今時では多くのガラス板を用い、その裏面に水銀を塗ったもの。我が国では古来、鏡を婦女の魂として鄭重に取り扱ったとある。

青木氏から聞いた話では、鏡は「加我美」と書かれるのだという。

私の手元にある辞書にも百科事典にも「加我美」という説明は見当たらなかったが、素晴らしい当て字のような気がする。鏡が我が姿をうつし、更に自分の美しさを加えるとは良くぞ言ったものだと思う。

青木氏は、更に次のような言葉を続けた。

「加我美」は三文字の真ん中に「我」があるが、その我を取り除かなければ、鏡本来の形である「丸く」にはならないと諭(さと)されたという。成る程、お互いが自己の我を主張し合ったのでは家庭の円満は望めない。先ずは我を取り去ってこそ、はじめて夫婦間の円満があり、家庭が円満になることは自明(じめい)である。私たちも自己の我を取り除き、夫婦や家庭の円満のみならず、社会に対しても円満な交際ができるように努めようではありませんか。

(「誠心」昭和四十六年三月十五日発行)