人の喜ぶ姿を見て、我が喜びとし

親様のお言葉に、病(やまい)の原因(もと)は心から。難儀するのも心から。

難儀をせよ。難儀をせよ。難儀の底まで落ちるでなくば、神の心を知ることができぬ。と、仰せになりました。


身体(からだ)は神の貸し物やで。古くなったらお返しをして、また新しい身体を貸してもらうのやで。身体は神の貸し物じゃ。水を飲んでも死ぬことはあるまいと申されています。

親への孝行は月日への孝行として受け取れると申され。また、昇り切ったら下らにゃならん。落ちにゃならん。


人の喜ぶ姿を見て、我が喜びとし、人の悲しむ姿を見て、我が悲しみとすることを教えつつあると申され、互いに立て合い助け合い、理(神)を立てて身が立つ。人を助けて我が身が助かると申され、世界一列皆きょうだいや。他人というて更にないぞやと申されました。

人間の徳が進んでいったならば、病まず、死なず、弱りなきようにしてやると説かれている。

また、しかと聞け、口(くち)には月日が皆借りて、心は月日皆貸していると申され、誠ひとつが天の理、直ぐに受け取り、直ぐに返すのが天の理。と。仰せになりました。

親様は、昔から鶴は千年、亀は万年といっているが、あんな阿保(あほ)なことはないと言いなさる。その鶴は家の蔓(まん、つくるさま)で、子どものことを言うたのだ。また、亀は万年ということは生きている亀のことではない。亀(家名)は万年続くということである。と、仰せになりました。

親様御自身の口(くち)で指を数えられ、これは口である。これは歯である。これは舌(した)である。人に返事するには、ウン、ヨウなんかで言うのではない。歯が門番であるから、人がものを言うや時、ハハと言うのや。兵隊でも並んでいる、歯のよく並んだ者でないと兵隊に取らん。歯が抜けていれば採用せぬ。これは舌ではない。「知った」である。知ったの神様である。この中には口中(こうちゅう)と言うて、功を立て、忠を尽くすのである。その功と忠とは知ったの神様の使いようである。人の心を殺すのも知ったの神様の使いようひとつである。舌は一寸あるか二寸あるか分らんが、その舌三寸というて三の理(ことわり)や。その三つの理(ことわり)を弁(わきま)えて通ればよい。三つの理とは、見分け、聞き分け、心の吹き分けや。と、仰せになりました。