雲水の旅

親様は、大正八年から昭和十九年まで、春と秋の二回上京しては約1カ月、あちらこちらの信者宅を回遊(かいゆう)した。それを親様は「雲水の旅」といっていた。

請(こ)われればどんな家にも行った。親様の振動は神様の不可分の表現として、初対面の人間は誰もが一度は見たいと願うほど信者らの間では有名になっていた。

どんな家でも、誰かが「振動を見せていただきたい」と頼むと、親様はいとも簡単に「そうか」と言って、座っている部屋の眺めを見回して、時には座ったままで後ろの障子の桟(さん)に手を当てた。するとその障子が微(かす)かに振動をはじめた。次の瞬間には、家全体にその振動が伝わっていった。

その障子の外に家全体の障子や襖(ふすま)、柱や硝子戸(がらすど)の揺れ合う音が相当大きな地震が起こったように鳴り響いた。いわゆる家鳴り震動がはじまるのである。

親様のまわりで、それを見物している人までその大地震のような家鳴り震動に怯(おび)えて立ち上がるほどである、大きな家や頑丈な家ほど家鳴り震動が激しく聞こえるので、私のような度々の経験者であっても、時には腰を浮かせて、目や心を部屋の周囲に集中することもあった。神様は無論、そういう状態を長く続けようとはしない。みんなが震動がわかった頃合(ころあ)いを見はからって、自分の指を障子から離すのである。それと同時に振動も即座に収まった。

(心のはらい 第一巻 神さまのこと 芹沢真一著)


一方、その頃の様子が、芹沢光治良著「戦中戦後日記」に記してある。

昭和十六年(1941年)11月24日

日記を十日ばかりつけない間に、大きな事件あり。16日朝、作家27名に公用徴集あり、22日出発。仏印へ行けという、フランス語ができるので、私もこの次には出征の心組をなす。14日、親様御上京、19日、お泊り。「女の運命」と、「遠い国の近い話」[昭和17年5月刊『少年文学選』所収]とを書き送る。『憩い日』の校正来はじめる。玲子、軽い疫痢のようで心配せり。いつでも死んで行けるような状態で毎日を暮らしたい。


昭和十六年(1941年)11月26日

米国は我大使に文書を手渡す。

*ハル国務長官が日本側乙案を拒否し、中国撤兵要求を提議(ハル・ノート)南雲機動艦隊が単冠湾を出港


昭和十六年(1941年)11月29日 土曜日

風邪気味。親様を訪ねようとして果さず。親様は大宮へ行かれた由。「女の運命」二回分を少し書く。


昭和十六年(1941年)11月30日 日曜日

親様、12時5分発で離京。明日より増税というので、銀座の表も裏も反物屋は女達が一ぱいで、すさまじい。数日前、デパートで火鉢を買おうとしたが、家具は全部売切れていた。さわ来りて、工場の内部を語る。


昭和十六年(1941年)12月1日 月曜日

日米会談破局に近づく感あり、ルーズベルト大統領、急きょ別地よりワシントンへ帰るという報。東條[英機]総理の中華民国一周年記念会での演説に対する反論であるという。


昭和十六年(1941年)12月2日 火曜日

近頃怒りぽくて困る。妻は言葉や動作に、刺があって、それが私を無益にいらだてて困る。神様、もう少し、家のなかを静かにして下さい。


昭和十六年(1941年)12月3日 水曜日

アメリカ会談と南太平洋問題に、私達の注意は全部集まっている。子供まで、クルス大使が今日はハル長官ではなくてウェールズ国務次官に合った、と言う。

内容はさっぱり分からない。勝つことが分らない戦争、勝利が何か設定せられない戦争はしてはならない。


昭和十六年(1941年)12月20日

名古屋より父及伊藤氏来りて家中をさわがす。落着かず。

神様、立派な小説を書かせてください。それ以外にもう生きる甲斐もなし。


昭和十七年(1942年)4月14日 火曜日

安田晃君の戦死が悲しくて、仕事が手につかない。私の仕事の弟子のような人であった。もっと彼の魂とむすびついていれば、或いは助けられたのではなかったか。

夜11時頃、親様の御上京を(今朝)知らされる。


昭和十七年(1942年)4月15日 水曜日

毎日23時間は書くことをしたいと思う。真面目に書くこと。書くこと以外に自分の魂をみがくことはできない。目に見えない精神の世界をつくるような努力をしたい。小さな卑俗なことは考えないにかぎる。親様来る。お祭りなので出掛ける。


昭和十七年(1942年)4月17日 金曜日

親様がおいで下さるというので一日待つ。同行十人というが、その人々のために食事の心配することが苦労。魚や野菜をととのえるには大心配であった。おいで下さる時間が不明のために、朝から落着かない。三時半頃おいで下さる。同行九人。後に三人来るというが、そのために食事に心配する。11時頃お休みになる。しかし、お休みになったのは4時頃ではなかったろうか。


昭和十七年(1942年)4月18日 土曜日

*東京へ空襲。牛込・小石川・品川・淀橋・王子・荒川・葛飾に被害。空母発進の米陸軍機16機が東京・名古屋・神戸などを初空襲(ドーリットル空襲)

親様10時半に家を出かけられる。自動車をやとえたことをよろこぶ。お見送りして、ほっと安心するとともに、力をなくしたように疲労を感ずる。ただ天気よく。

12時を過ぎて昼食をしようとしている際、真近く庭の椎の梢すれすれに、美しい飛行機が飛び来るにのを見て、子供等に飛行機を見よと庭へ呼ぶと、末敏が叫んで言う。「アメリカの飛行機なり」と。そう言われたが、まだ敵機だとは思えず、星のある飛行機はゆるやかに飛び去る。

同時に「大変だ」と私は叫んだ。二階の戸を閉じ。水の用意と叫んだが、その頃高射砲の音が聞え、漸く空襲のサイレンが鳴る。二階に上がって見れば、戸山ケ原の辺に二ケ所黒煙が上がっている。家の内部を注意したが異状はなし。やや安堵す。

親様の滞在中に空襲でなくてよかったと思う。


昭和十八年(1943年)11月15日 月曜日

親様が御上京で、高砂のお祭りというので、下女達までお詣りをしたいと言っていたので家中出掛けて留守居する。長女は学校を休んで留守居する。皆の帰ったのは午後5時半である。お祭りでも食事が出なくて、空腹をやっと我慢して来たという。総て配給の世ではさもありなん。

夜、朝子をつれて高砂にお詣りする。9時についた。親様は十八日においでになるという御言葉である。


昭和十八年(1943年)11月16日 火曜日

朝、家兄(芹沢真一)が寄る。親様の話をする。マンガンの山へ一万円ばかり出さないかということを、さも出すことに決めたように話している。もう山や池に金を出させようとすることはやめないものだとうかと、密かに思う。

正午に高砂から電話で、親様が寄られるという。

神が秘め隠していた万能の鉱石

昭和十八年(1943年)11月17日 水曜日

暖かなので朝苺畑の土をいじりながら日光浴をした。親様がもう戦争のことを語らなくなったのは、人間はどういっても仕方がないということだろうと考えたりした。