喜べば、因縁が切れる

親様は、人間の喜びを見て楽しもうと人間をお作りになられた。

従って、喜んだら神の望まれるとおりだから、神はよくお守りくださるが、喜ぶことの出来ぬ者は御守護が薄い。だから人間は喜ぶように努めなければならない。

信心は、喜び感謝することを教えている。従って信心するからには、どんなことにでも喜び感謝できるようにならなければならない。よく悟(さと)りだとか、迷いだとか云うが、悟りも迷いも、喜ぶことが出来るか出来ないかだけの違いである。


親様は、喜べば、因縁が切れる。とも言いはっている。

因縁が切れる喜びとはどんな喜びを指すのだろう?良い時は誰でも喜ぶことが出来るが、悪い時はなかなか喜べないものだ。悪いときにこそ喜べるようでなければ真の喜びとは云えないのであって、悪い時に喜んでこそ因縁が切れるのである。

喜ぶことを他人の力(ちから)や物質に求めようとするから、迷ったり憂(う)れいたりする。

常に、使って下さりありがたい、働かしていただきありがたいと思って神に感謝し、親の苦労や世間の人の苦労が自分を大成(たいせい)させているのだと考えたら喜ばざるを得ない。


親様はまた、心の中の喜びは、口(くち)には言えん楽しみである。と言いはっているように、口で話すことのできる喜びは、まだまだ本当の喜びではない。本当の喜びは、涙ばかり出て、本当に何にも云えないものだ。

弘法大師(こうぼうだいし)も、「空海の心の中に咲く花は、弥陀(みだ)よりもほかに知るものはなし」と言っている。