天理教教祖 中山みき

天理教祖 中山 みき

1798~1887年

寛政十年(一七九八)四月十八日、大和国山辺郡三味田村にて、前川正信ときぬの長女として生まれる。

天理市三味田にある中山みきの生家(前川家)

幼少の頃から信心が篤く慈悲(じひ)深い子であったという。事実(数え)十三歳で同郡庄屋敷村の中山善兵衛の妻となっているが、嫁いだその晩に念仏を唱えることを乞うたといわれ、十九歳で五重相伝を受けている。また、みきの人となりに関しては『稿本天理教教祖伝』(一九五六年、天理教道友会)に、家業に精を出す姿、盗人(ぬすっと)も許す憐(あわれ)み深い態度、自らの子の命と引き替えによその子を救った慈愛(じあい)の姿が描かれている。

天保九年(一八三八)十月二四日、昨年からの長男秀司の足痛に加え、夫の眼の病気、みき自身の腰の痛みのため、修験者を招いての寄加持と呼ばれる祈祷が行われる。この時、寄加持の加持台(巫女)になる女性が不在であったため、みきが代わって加持台を務めることになるが、こん時みきは神がかり、「我が元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり、この度、世界一列を助けるために天降った。みきを神のやしろに貰(もら)い受けたい」との天啓があったという。この後、三日三晩、家人と神との問答が続き、十月二六日、夫の「みきを差し上げます」の言葉に、みきは「神のやしろ」と定まり、この日(天保九年十月二六)を天理教では立教としている。


この後、家財を貧しい人々に施(ほどこ)すなど、神に命じられた「貧(ひん)に落ち切れ」を実践するが、周囲からの理解は得られなかった。家計は困窮(こんきゅう)を極め、やがて夫も死去するが、その中にあってもみきは常に理想世界である「陽気ぐらしの道」を説いたといわれている。

安政元年(一八五四)頃から、「帯屋ゆるし」(安産の守護)や病気治しなどのよる「救済」が人々の注目を集め、布教活動が軌道に乗っていく。

元治元年(一八六四)には、後にみきの後継者となる飯降伊蔵(いぶりいぞう)が入信し、彼の奉納で最初の教団施設である「勤め場所」が出来ている。しかし、同時に周囲の宗教者との軋轢(あつれき)も生じるようになり、この後、干渉や圧迫を浴びるようにもなる。

飯降伊蔵(いぶりいぞう)らの奉仕で建てられた「勤め場所」

やがて、慶応二年(一八六六)から、儀礼の形式と内容が徐々に整えられ、天理教の儀礼である神楽勤めの地歌である「みかぐらうた」が誕生する。「みかぐらうた」は「地歌」と「よろづよ八首」の各下り十首の数え歌からなる「十二下り」の歌によって構成されていて、この歌に対応する「おてふり」も、みきによって定められている。明治二年(一八六九)から十五年にかけては全十七号一七一一首からなる教義歌「おふでさき」が作られ、そこには、親様が人間を創造されたこと、親神による子ども(人間)の救済、人間が心の入れ替わりにより理想の状態に近づけることが説き明かされ教義的な基礎が固まっていった。

しかし、有名な神社などの宗教者による干渉や圧迫に加え、明治に入ると官憲(かんけん)の取り締まりが厳しくなる。これに対してみきは、明治七年(一八七四)の神具没収を契機に、赤い衣を着て自らが「神のやしろ」であることを明示するようになった。また「おふでさき」も大量に執筆されるようになり、特に十七号では「神の残念と怒り」が切々と綴られている。

「天理教本部大祭之図」(大正十五年発行)の版画に描かれた教祖中山みき。月と日は親神の象徴である。みきは「月日のやしろ」とされていた。

明治八年になると、みきのよって人類誕生の中心である「ぢば」が中山家内に定められ、後年、みきはここにその目標として「かんろだい」が建設されることを明示している。天理教ではこれを「かんろだいのぢば定め」と呼んでいる。後に発生する分派分立の問題の争点のひとつは、この「かんろだい」の解釈を巡って引き起こされている。

「かんろだい」は、人間の創造と成長を象徴し、六角の台が十三段、八尺二寸で建てられるなど、「おふでさき」によって、その建設の意義や形状が明確に示されている。実際の建設は、十四年から開始され。同時に、この頃からみきの教えには「こふき話」(通称「泥海古記(こうき))と呼ばれる天理教独自の人間創造神話が信徒によって作られるようになる。しかし、かんろだいに関しては、二段まではできたものの、十五年に官憲の圧迫によって没収され、中断を余儀なくされなければならなかった。そして、さらに信徒が急速に増加したことを憂慮(ゆうりょ)した警察当局により、みき自身が拘引(こういん)されるようになる。


こうした取締り対して。教団の中核信徒は組織の合法化をもって対抗しようとするが、みきはこれを拒絶し、世俗(せぞく)の権力より神の権威の優位を力説する。こうしたみきの最晩年の言葉は「おさしづ」と呼ばれる天啓録の一部分をなし、「みかぐらうた」、「おふでさき」と並んで、天理教原典のひとつとなっている。

中山みきが死去したのは、明治二十年(一八八七)二月一八日(陰暦一月二六日)である。

その日、かねてより、みきの願いを聞き入れた中核信徒によって「かぐらづとめ」が執行され、みきは鳴り物の音を聞きながら、その時を迎えたと伝えられている。

天理教では、みきが死去したとは捉(とら)えておらず、「現身(うつしみ)を隠(かく)した」と言い、みきの魂はいつまでも存命(ぞんめい)のまま「元のやしき」である中山家に留まって在世中と同様の守護をすると信じられている。天理教では、これを「教祖存命の理」と呼んでいる。

(引用:天啓のゆくえ/中山みきと天理教の立教)