八つの埃

この世の中に、生きているもので、八つの埃のないものはない。草木でもある。雨のない時は、雨が欲しいと待っていると、そこへ雨が降ると喜ぶ。

八つの埃は、神様にもある。人間を助けたいなと思う心は、既に埃である。これを取ってしまったら、人間、生きられやせん。だから、八つの埃とせずして、八つの楽として、心を晴らさねばならぬ。しかし、一番先に、誠の道と充分感じた人でも、只今になっては、色々な心に尽くしている。

穀物でも、力一杯成人しても、後には、それは穂になって、実が取れるようになると同じこと。八つの埃をとろうと思うと難しい。自分の心で弁(わきま)えて、喜ぶと言うことを尽くさねばならぬ。喜びの中へ尽くしていったならば、自然にとれてしまう。「わし」でも、八つの埃を一つを持っている。ほんに可哀相な、どうぞ誠の人にしたい。そうぞ誠の心になって呉れれば善いが。天理の道を立てればよいが。と仰せになりました。

「八つの埃を払おうと思うと、難しいから、八つの埃の正味を楽しんで行け」とかすべて、積極的積極的に行こうというのが、親様の主義であります。

即(すなわ)ち、親様のお授けは、天理誠のお授けである。それは、これまでお授けのように、「悪しきをじ払い」を九遍も繰り返すのではない。腹の痛むところ、歯の痛むところを撫でて、誠の息を吹く掛ければ、それで助かるのです。先方の悪しきを払うて助けてやって頂きたいと、神に祈願するのです、

天理誠のお授けは、自分の悪を払うて先方の悪を払い、自分に貰い受けさせて頂くと言うお願いである。と仰せになりました。


八つの埃とは

欲しい、惜(お)しい、可愛い、憎(にく)い、恨(うら)み、腹立ち、欲、高慢(こうまん)な心を去って、誠の心にならなければならない。

何故ならば誠のみ、信の吾人(ごじん)に救い我を楽しましむる唯一つの心の理法(りほう)に叶うからである。

この世の中で、人間ほど貴(とうと)い者はない。その貴い者を、貴きに立ててもらうと思うのは、心の使いかけ一つである。その心は、神様より授けて頂いているものであるから、神様の御恩を思ったなら、その心の使いようを思わねばなりません。

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