言葉の使い方からはじめよ

熱心な信者であった芹沢真一氏が、親様から受けた厳しい訓戒(くんかい)のお話です。

芹沢真一

昭和二十一年の五月のお祭りの日から三十四ケ月もの間、私の家内や子ども達に対する「言葉づかい」について、親様は、特別の注意というか、辛辣(しんらつ)な裁(さば)きというか、かってない厳しい訓戒を授(さず)けた。お祭りの日という信者が大勢集まっている神殿で、親様は私をみんなの前に引き摺(ず)り出して、

芹沢さん、あんたお祭りに来るとき、奥さんや子どもさんらを偉そうに叱(しか)りつけて出てきたなぁ。あんたの言った言葉をみんなの前で披露(ひろう)してもいいぜ。

私は、あまりにも急なことで口が利(き)けなかった。親様からこんな風に厳しいお叱(しか)りを受けたことがなかったので狼狽(うろた)えてしまった。私が黙り込んでいると、親様は私が発した言葉を寸分違(すんぶんたが)えずズバリ言ってのけた。まさかと思っていたことを親様は言ってしまったのである。私は、信者みんなの手前当惑(とうわく)し、やり切れない思いになった。

「なんで、私が発した言葉を知っているのですか?」と聞いてしまった。

すると、親様は「そのとき、あんたの家の戸口(とぐち)に神さんがいたんや」

「それでは親様は、何もかもご存知だということは、いつでも私の家の内や外にいるということですか?」

親様は「そうや、神さんは今ここに座ってはいるが、東京にも座っていることにしたんや」と。

あんた、東京に戻ったら奥さんにまず言うんや、

留守中のこと、なんとも有り難うと奥さんに頭を下げ、手をついて謝るんや。そして、少しくつろいだところで、神さん宅ではこんなことがあった、神さんの話はこうであったと奥さんや子どもさんに報告しなはれ。そして、播州にお参りに来る時は必ず「行って参ります。長い間の留守中(るすちゅう)のこと、どうぞよろしくお頼(たの)みします」と丁寧(ていねい)に頭を下げてから出て来なはれ。


まるで、小学生にでも話すような調子での訓戒であった。

しかし、肝(きも)に鋭ずるどころではない。性根(しょうこん)を変えても追いつかないほどの内容の訓戒であった。ただ言葉を変えればよいというものではなかった。終戦まで、威張(いば)って世渡(よわた)りをして来たこと、すべてを家庭にまで持ち込んでいた生活態度一切を変えない限り、親様のいうような言葉は出てこない。

私は考えた。三十年近くも、神さんに連れられて信心して来たように思ってはいたが、信心の「いろは」もわかっていなかった。信心の「いろは」は先ず、家内や子どもに対する言葉の使い方からはじめよであったのか。なるほどそうかと、はじめて目が覚め朝の光のようなものを感じた。そして、もっと本気(ほんき)でやる気を起こした。

そもそも、家内や子どもを劣等視(れっとうし)するとか見下(みくだ)すというのではなかったが、自分中心の生活態度から、言葉づかいや心づかいに調子の高いところがあるのは気付いていた。結局のところ、家内や子どもを「我妻、わが子」と決め込んで、神として尊敬したり、礼を尽くす気になれなかったでのある。長い習慣で妻子(つまこ)を従属関係(じゅうぞくかんけい)にあるよう扱(あつか)っていたのである。

親様の厳しい押し込みを受けて、言葉を変え、心が変わりはじめたころ、親様から別の言葉が、私だけに囁(ささや)かれていることに気がついた。

うそか、まことか、まことか、うそか。

なんで親様がこの言葉を囁(ささや)きだしたのか、きっかけも理由も全然わからないが、何時(いつ)とはなしに、親様と顔を合わせると、挨拶のように親様は私に向かって小声で言い掛ける。しまいには、私も親様の言葉が終わると、うそかまことか、まことかうそか、と、おうむ返しに口ずさむと、親様もまた同じようにそれを繰り返した。

頭を下げ、合わせて通ることがまことの実践(じっせん)の本質ではあるが、肝心なことは、頭を下げたり合わせるその瞬間の「心」はどうなっているのか、まことのことかというこである。