信仰の徳と相続

信者様の記録から、親様の教えを読み解きます。


本誌でも何度かご紹介申し上げた方に、東京の本橋孫三郎氏がいる。

本橋氏は、はじめて播州にお詣りに行ったとき、親様と親子の盃(さかずき)を取り交わしたほどの方だから、大変に熱心な御信者であることは申す迄(まで)もない。

只今は、春秋二期の例大祭には必ず帰播し煮豆を作られている。また、高砂(東京都葛飾区高砂)の飛地境内にも毎月のように見えられて、煮豆を作っていただいている。

以上のような熱心な信者なので、子ども達にもこの教えの良さを引き継いでもらうことを念願していた。ところが、何処(どこ)の家庭でも見受けられるように若い人達は見向きもしてくれない。この点で本橋氏も悩んでいたようである。しかし、本橋氏は御子息がこの教えを相続するよう祈り続けていた。


信仰は相続すべし、という言葉がある。このことも何回か申し述べた。子ども達は親の信仰態度を逐一凝視(ぎょうし)している。いささかでも親の信仰態度に雲があれば相続しない。逆説的にいえば、相続出来ないのは親の信仰が偽だったといっても過言ではなかろう。本橋氏の場合、本橋氏の信仰態度は本物だったようである。信仰を奨(すす)めたことのない長男が、このほど信仰につこうとする気配(けはい)を見せている。


長男は、中央大学を卒業後、現社長と同期の関係からか、株式会社パイオニアに入社。現在経理課長の要職にある。パイオニアはご承知のとおりステレオの一流メーカーで、「会社四季」によれば年間の売上360億円といわれている。

ステレオのような製品は永久的なものであって、一通りゆき渡ると売れ行きが頭打ちになるのは当然なことだろう。この売れ行きを打開するためには、新市場の開拓か製品の変換を求めなければならない。政策上保守的な年寄りと進取に富む若い人達の間に相剋(そうこく)ができるのも止むを得ない。長男はこの点を随分悩んでいたようである。この難問を打開するためには、父が常々ありがたいと言っている神様、親様にすがる以外ないと決意し、九月四日の重要な役員会を前にして三日、進んで父孫三郎と共に帰播した。


播州に着くや墓前に額づき難局の打開を祈った。そして、神前に向かう途中、正門前の線路を渡った途端、貧血でも起こしたのではないかと思うように頭の中がふらついたという。

この現象は、正門をくぐると同時に止み、難局打開のヒントを受けたようだったという。更に神前で福井氏と話し合った結果、氏から「自己の意見を通そうと思うから反発を受けるのだから、自己の意見を謹(つつし)み馬鹿になりなさい」と言われたという。

長男は、四日の役員会に間に合うよう三日夕刻帰京した。その後の経過は定かではないが、台湾へ工場移転を考えたことのあるパイオニアなので、台湾との打ち切り等も大きな悩みだっただろうが、中国への打開に踏み切れたのではないかと思う。

本橋氏が喜んでいるのは、会社内のこともさることながら、願いに願っていたこの教を、長男が相続してくれるらしいということである。


まだ、この話には後日談がある。六日の秋季例大祭も無事に終了し、本橋氏は墓前に供えられていた榊(さかき)を貰い受け帰った。その榊を長男に贈り、長男は早速自分のクルマに榊を糸でつるし災難除けにしたという。

その後、十日も経たぬ中に、長男のクルマが三重衝突を受けた。三台並んで走っていた最後部の一台がブレーキとアクセルを踏み間違えたための事故で、先行の二台はメチャメチャになってしまったという。一番前にいた長男のクルマも使用に耐えぬほど破損してしまった。

これほどの事故にも拘わらず長男はかすり傷ひとつなかったが、つるしてあった榊を見れば、糸が切れ吹っ飛んでいってしまったという。長男はこれを見て、親様が身代わりになってくれたのだと喜び、親様の御守護のありがたさに今更ながら頭が下がったという。御守護のありがたさがわかるようになれば、信仰の相続は間違いないと思う。

(「誠心」昭和四十七年九月十五日発行)