なぜ井出クニに、神が現れたかを考えることにする。
神様には、偶然ということはないから、明治四十一年、突如として神が、井出クニに現れたということではないはずである。
何千年か、人間世界の様子を見ていた神が、この人<女>こそと決めるには、それだけの理由があったのであろう。どんな理由か、それを私にはとても想像することは出来ない。
しかし、神様には、自分が神様になった成り立ちのことについて、こうであろうかと書いたり話したりしている。
私(芹沢真一)が神様の宅を訪ねた最初の日、神様は私を二の膳付きでもてなし、酒を盃(さかずき)に注ぎながら、
”あんたが、こうしてわしの前に座ったんは、あんたが来たくて来たんとは違うぜ。わしが呼んだんや。それというのも、あんたの先祖と井出家の先祖と、わしの生まれた家の吉永家の先祖とが昔同じかまどの飯を喰った因縁からや”
と言って、古ぼけた焼け焦げだらけの巻物を持ち出してきて、私の前にひろげて見せながら、
”見てみい、井出家の先祖は清和天皇から出た源義家であることがちゃんと書いてあるやろ”
”わしの実家の、吉永家のお父さん<吉永亀吉>は武田信玄の子孫で、これも同じ源氏や。あんたの先祖も武田源氏やろ。不思議なやぁ。古い焼跡から、この系図の巻物だけが出たというのは”
私はそこで、我々の先祖が、いつ頃どこで同じかまどの飯を喰ったかを質問したり話しあったりした。
”神が、私のような身柄(みがら)の悪いものに出たというのは、罰(ばつ)が当たったと考える外はないが、吉永家の実母<吉永立つ>も、井出家の夫<井出千太郎(仙蔵)>の母も天理教を信心(しんじん)していて、私も十五歳の頃には、母に連れられて教会にお参りをして、神様のまことの話に心を打たれたこともあり、血統(けっとう)や信心の因縁でこんなことになったんや”
神様としては、恐らくこれ以上のことを知らせることはできなかったであろう。想像するに、天界の神としては、何千年の先祖の血統や魂の因縁を見極めていて、この女<井出クニ>こそと決めていたのであろう。
人間の尊厳や個人の自由を教える神様が、血統の因縁と信心の因縁を話に持ち出すのは、自由主義や合理主義者、いってみれば大正時代の私のような若い者にとっては納得しかねることであった。血統とか信心の因縁が、何千年も何百年も続くものかどうか人間としては考えようのないことである。
しかし、魂というものが、神心の振動の擬集体であり、何十億年の生命の繰り返しの因縁によって、やっとまとまった神心の形態を獲得することになったかを考えると、神様はどんな人に心魂の因縁や運命も承知しているはずである。血統とか信心という常識的因縁の二、三だけが神様の選択の理由ではないであろう。地球のうえに生滅する何億何十億という人間の中から、たった一人を選ぶということは、やはり人間には想像もできない神様のはからいがあったのであろう。
血統の因縁といえば、井出クニの生まれる前からの因縁であり、母親たちの因縁といえば生まれてからの因縁でもあり、神様の言葉を引用するのであれば、成人してから後の身柄が悪くなったことで罰(ばつ)が当たったということでもあり、要するに、人間の常識に訴えてわかるような理由を考え出すことは神様も敢(あ)えて試みなかったことであり、これ以上の詮索のしようがない。しかし、神が井出クニに降下(こうか)する前に、神は井出クニに「前触れ」のような試みを行っていたことは事実であったようである。
井出クニは、吉永家の長女であったため、父亀吉の鋸鍛冶弟子<秋田源吉>を婿養子に迎え、三人の男の子<吉永清太郎、小原作太郎、吉永平吉>の母となった。子どもらが成人すると、クニの明けの明星(金星)の魂が自分に飛び込んでくるように思った。そして、その時から気持ちが変わりはじめて、夫や子どもらをすてて独身を続けていたところ、やすり鍛冶井出仙蔵の妻の座に移っていったのである。
この明けの明星の魂が、身内に飛び込んだ話を聞きつけ、天理教祖中山みきの卑孫福井勘治郎は会ったとたんに、この女井出クニこそが教祖の予言した神なりと信じ込んで、三十代の壮年からずっと神様宅に寝泊まりするようになって、唯一の弟子として祭祀やおたすけのこと一切を神様なき後も引き継いでいった。