伊勢参り・天竺・南無

人間が、伊勢へ参る時には、春日様へ参り、それから、お伊勢様に参る。大神宮は、人を生み下ろした神様。また、春日様は、月日をこの世に編み出された神様であります。

それから、親様の話が進んで、今度は天竺(てんじく)の事をお説きだしになった。

天には天竺というところがある。何でも、神になろうと思う者は、天に昇る。えらい雨風の時、竜が天に昇るというのは、力あるものは四足でも、蛇体(じゃたい)でも、天に引き上げられる。けれども皆が皆まで、一番高い天に昇ることが出来ないから、中途で休息するために、天と地との間に休息所が出来ている。それが、天竺<天宿>である。

そのには、八百万(やおろず)の神がいて、神の行をしていなさる。それらの神様たちが、雨の要(い)るときには雨、風の要るときには風を吹かしなさる。それより、上の天は、いつも晴れ渡っている。天竺から、釈迦が下ったというのも、そこである。と仰せになりました。

親様は、南無は、月日両神に形どって、つくったものであるから、南無がつかねば、有難いことはない。何事も南無という二字をつけてくれと申され、只今の、天皇陛下が人民を大切にして下さるところの、御恩というものは、中々の御恩である。中にも、明治天皇の御恩というものは、勿体ない程の御恩である。

その御恩を忘れて、自分は偉いものと思うて色々心を尽くして、作らんでもよい病気を作る。一厘(いちりん)の金をもって、国に尽くし、結構事情に心を寄せて行けと、お教え下さいました。

また、昔から、天皇陛下の数も多いけれど、明治天皇様より、結構な陛下様はないのです。これよりこの世に、大きい神様はないのです。これが世界中で一番大きな神様です。人民の為に、百まで寿命のあるところを、お縮め下さったのですから、これより大きな生き神様はいないのです。寝ても起きても、このお方の御心(みこころ)を、忘れぬようにすれば、どんな苦労をしても、苦労ではないのです。その勿体ないことを忘れ、ただ天理を笠に着て、栄耀栄華(えいようえいか)に暮らすようなら、誠にすまないことである。と仰せになりました。

(南無というのは、夫婦の事なり、夫婦とは、天地を形取りて、夫婦始めの事なり)

親様は、神様八分、人間二分である。眼をつぶれば神である。けれども、神様になり切っては、人間の付き合いが出来ないから、人間二分を残しておいてくださるのだ。

身上「教祖」は亡魂(ぼうこん)だぜ、亡魂というのは、字で書いたら「消えた魂」と書く。身上は、姿があっても心は神様やぜ、と仰せになりました。

また、「外(ほか)の人たちは、人間八分で神様二分である。わし(親様)だけが、人間二分に、神様八分である」と仰せになりました。