信者様の記録から、親様の教えを読み解きます。
喜びの栞(しおり)
広島県呉市 桂川 節子 様
お金は、喜んで費(つか)ったら廻りまわって喜んで入ってくる。不足しながら出せば廻りにくい。
言葉も喜ぶように使ったら、喜ぶように言ってくれる。怒って言ったら「売り言葉に買い言葉」で怒って返ってくる。また身体(からだ)も、喜べば血も増え肉もつき、心労(しんろう)もなくなるので、病気になるようなことがなくなる。喜べず陰気な家庭に病人が多いのは、こうしたところに原因があるのではないかと思う。
身上(みじょう)は借りものと云い、神からの借りものである。従って、喜んで使わしてもらうようにしたら、喜んでお貸し下さる。
みかぐらの歌の二下りに、「八つ、やしきは神のでんじゃと おしえおいたはみのうちや」とあり、みのうちは人の身体、神の田地(でんち)であるから、喜びのよい種を蒔(ま)けば、喜びのよい実がなり、陽気に暮らさせていただくようになる。
人は、お金や物を持って財宝として喜んでいるが、神は心の誠である喜びを宝としている。
お金や物は、失ったり取られたりするが、心の喜びはそれがない。喜びの宝は自分のもので、他人はどうすることも出来ぬ。こんな尊い宝を得ようとすることを打ち忘れ、お金や物ばかり追いかけ通しているのはどうしたことだろう。
与えられても喜べない人は、心の貧しい人ではなかろうか。与えられたものが少なくとも、喜んで受け取れる人は、心の富める人であると思う。どんな苦労でも喜んで働いてこそ、信用が出来るのであって、こういう人は難儀(なんぎ)をしようにも難儀のしようがない。損得だけを考えて仕事をする人は喜びが薄い。損をするようでなければ本当の「徳」は得られない。
自分がしてやった、自分が助けてやったと恩を売っては喜べない。こんな人に限って礼を欲しがり、礼のたかに不足を竝(なら)べる。常に、させていただきありがたい、自分のようなものでもつかって下さって勿体ないと思って喜ばなければならない。
人は、他人の成功を妬(ねた)み、失敗を喜ぶ傾向もある、他人の喜びを共に喜べるようになれば、先ず一人前の信仰者である。共に喜べないのは、自分の信心の不足、修養(しゅうよう)の足りなさだということを考え、一層努力しなければならない。
喜ぶということはなかなか難しいことであるが、喜びを離れては神の道はない。
心に喜びを求め、倦まざるところに神の救いがある。従って、悪いことは一切忘れるように努め、嬉しいことだけを思い出し、喜んで暮らすように努めなければならない。
(「誠心」昭和四十四年七月十五日発行)