戦争と予言

親様が、戦争のことを信者に対して口にした事実は、大正九年にさかのぼる。

当時陸軍中尉の若い士官(しかん)に、アメリカと戦争をするんではないぜ。みんな軍人はアメリカと戦争したがっているようやが、アメリアと戦争をしても日本は勝てんぜといった。

この中尉は、昭和二十年八月の終戦時には、満州国将校役人として満州にいたため、ソ聠(当時のソビエト社会主義共和国連邦)に連行され、十年の抑留生活をソビエト領で送って帰国し、夫婦そろって朝日神社の大祭には神詣りを続けていた。なぜ、大正九年という時点で、その若いいち士官に、アメリカとの戦争問題を口にしたのかは判断もしようがないが、親様はこの頃すでに、日米戦うことを予測していたと思われる。

親様が、大正十五年四月から「心のはらい」というお祈りの言葉を、毎晩九時に神殿で三唱(さんしょう)することにしていたが、そのおはらいの文句の中に「まことをいのれば、世界に百万の神も、心まことに、天よりさづけ下さるべし」とある。その意味を当時側近(そっきん)の信者が親様に尋(たず)ねたところ、

あんたたちには、わからんことやが、例えば、これから後、何年かして戦争が起こるとするやろ。その戦争は、日露戦争や世界戦争のようなこととは違って、とんでもない、人間には考えられへんような大戦争になるんや。そのとき、外国の兵隊さんが大勢日本へ来て、日本を助けてくれる。そういうことが「百万の神も、天よりさづけ下さる」ということや。


この話は、終戦と同時に、その側近の信者が思い出して、みんなに話してくれた。百万の神を戦争や兵隊に結びつけていたというのは、親様の、その当時の思惑(おもわく)にからめたものと考えるより外(ほか)はない。

昭和六年十一月十五日の満州の運命や、日支事変から第二次世界大戦に至る親様の予言は、やや具体的に神さまの思惑を表明してものと言っていいだろう。昭和六年という時点で、親様が満州の運命や日支の全面戦争、世界戦争を予言したということは、その時すでに神さまの腹案(ふくあん)が成熟しつつあったからと考えてもしかるべしと思われる。

上海事変、日中戦争、第二次世界大戦、広島・長崎への原爆投下を予言

その後、親様の戦争に対する究極(きゅうきょく)の言葉は、昭和十八年頃から、ぽつぽつと現れはじめた。

勝った、勝ったといって、いくら外国の領土を占領(せんりょう)しても、日本は占領した土地の人の心をとることができんから、つまらん。土地ではない。人の心をとるんや。

みんな日本人は、広い土地を占領して、有頂天(うちょうてん)になっとるが、人の心をとることをしらへん。人のこころをとることができんと、朝鮮のように四十年もしたら、また元に還(かえ)ることになろうが。

親様は、すでにこの昭和十八年の時点で、朝鮮が合併後四十年で日本から離脱(りだつ)することを予言していた。これは、満州が昭和六年から十五年もしたら良くなるといったことと同じように、終戦で朝鮮は四十年、満州は十五年で元通りに還ったことを裏付けている。そして、昭和十八年秋には、昭和十九年二月までに政府や軍が無条件降伏し戦争が終わらないとなれば、その先二、三百年は外国に頭が上がらんことになると予言している。


昭和十八年秋の段階で、日本国が無条件降伏するということは、不可能であるということが一般情勢(じょうせい)の常識であったことは説明するまでもない。民間人政治家や軍人が、講和問題でさえタブーとして取り扱っていた時代であるから、負け戦を予想しながらも早期講和を是(ぜ)とする相当数の軍人も、和平問題に積極的に踏み出すことはできなかったと考えられる。

そして、戦局は日に日に日本軍の不利に展開し、昭和十九年末には、日本国民の大部分が敗戦を覚悟するようになった。

この頃になると親様は「日本は、負けない、心配せんがよろしい」と言い出した。そして「戦争もやがて終わるやろ、そしたら、勝ったが勝ったではない。負けたが負けたではない。今度という今度は、どこの国も、戦争をして得をしたという事が無いようにするぜ、二度と戦争ができんよう、戦争はこれでおしまいだということにするぜ」と、

昭和二十年の入ると更に「こんな戦争をして、日本人も世界の人も、つまらん戦争をしたと思うているやろうが、日本がしたことで、一つだけいいことがあるぜ。それは、日本が占領した外国の植民地を独立国にしてやるとう約束したことや。よかったということがわかるときがいつかくるぜ」といった。