親様は「みこころえのはなし」の中で、病(やまい)というものは、お金や薬で治るのとは違います。自分のまことで、病はなくなります。と書いている。
病というものは、患(わず)ろうて寝ることばかりではなく、心のわずらいが本当の悪い病。この心のわずらいにより様々(さまざま)なことになります。ゆえ、そうぞ皆さん、我が国は大切。みな、上には皆さんを想い、どんなにご苦労をされるかも知れません。ゆえ、そうぞ皆さん、心のやまいをなくして、はやくまことの心になってくだされ。頼みます。と書いてある。
それでいて親様は、病人を探し出してたすけようとしたり、信心(しんじん)を勧誘(かんゆう)したりと、余計なお節介(せっかい)は「せんがよろしい」と関心がなかった。
神さんの教えには、おたすけをして人から金や物をもらうことはないぜ。このわしでさえ、物や金をもらったことは、ないぜ。
親様がたすけたいのは、身体の病気とか、金や物の人間関係ではなかった。本当にたすけたいのは「人間みんなの心」である。
人間というものは、神の世界に神とともに生きていることに気づかず、今日一日の大切さを忘れ、明日から先の心配ばかりして、自分の境遇(きょうぐう)や運命に不満をもち、他人に対しても不足の心を抱(いだ)きがちである。これが心のわずらいである。だから、心の病をなくして、まことの心になってもらいたいから「おたすけ」するのである。親様が「まことの心になってくだされ、頼みます」というのは、人より外(ほか)に神はない。人間が神であるという、本来の神心になってもらいたいということである。
親様は、昭和十九年の上京のとき、ふるくからの信者で、「先生」と呼ばれる立派な信者宅を訪れた帰り際、「どうぞこうぞ、夫婦で商売をして食っていけるなら、それに満足して、おたすけをせずに(求めずに)やっていきなはれ。商売一本で、いいな。奥さんも、わかってくれなはれ」と、羽振(はぶ)りをきかせていた信者のおたすけを止(と)めた。
親様は人をたすける際、私のような罪深(つみぶか)いものに、おたすけをさして下さってまことにありがとう。あなたの悪いところをいただかせてもらって、私の罪(つみ)の埃(ほこり)を少しでも軽くさしていただくことになれば、まことに幸せでございます。ありがとうございます。まことにもったいのうございます。と、一生懸命唱(とな)えていた。
相手を、助けてあげようなんて心は、あかんぜ。助けてもらうのは自分や。だから、おたすけが済(す)んだら、相手に向かって、ありがとう、を繰り返すことになるんや。
あたすけをして、物や金をもらったり、礼を受けたりすることは、してはならないことである。
親様の教えに従(したが)って、家族夫婦が仲睦(むつ)まじく暮らし、商売繁盛(しょうばいはんじょう)をして、土地所の模範(もはん)になることや。そうしたら、近所の人や遠くの人が、どうしてそうなったんか、見たり聞いたりしたくなるやろ。それが何よりもおたすけや。人から褒(ほ)められたり、真似(まね)したいと思われるようになったら、一番のおたすけやないか。
たすけというのは、自分の持っている物や金を困っている人に施(ほどこ)すことである。物や金は、本来神のものであり、人間は一時預(あず)かって使わしてもらっているだけのことであるから、人のために使わしていただいたなら、神も喜び、一番結構な使い方になるかも知れない。施してからの結果、与えた物や金が還ってくるのかとか、与えられた人がどう感謝の心を現わすかなど一切考えず、ただ与えて相手が喜んでくれたなら、それでよかったと忘れてしまえばよい(芹沢真一)。