正直は罪をつくる

信者様の記録から、親様の教えを読み解きます。


人の心を助けることが目的の親様であれば、如何(いか)なる言動も、その源(みなもと)は助けとする諭(さと)しが含まれていることは明らかである。

例えば「正直」という言葉ひとつにしても、神として真実のまゝを言うまでだが、実は人間に対しては「ウソ」を言われている。ウソという言葉が悪ければ、人間の心に合わせられる神の御慈悲の言葉という以外ないということが分った。

昔、故吉田先生からお聞きした話の中に「正直は罪をつくるぜ」ということと、「正直は結好や、しかし、正直を善いものと思ってはいかん」というお言葉があった。自分に都合のよい正直を盾(たて)に人に強いたり、また自己の一徹な正直が仇(あだ)となり、反って人の心に迷惑をかける言動を戒(いまし)められているものと思われるが、自体、そこに頑迷(がんめい)という片鱗(へんりん)を覗かせていることは否めない。


人間の思う正直と、神の言わんとする正直とには大きな違いがある。人間は自分が正しいと信じることによって、敢(あ)えて人の心を抹殺(まっさつ)してまでも押し通そうとする面が見られるが、神は人の心を助けるために、あくまでも自分の心を犠牲にすることを念頭におかれている点が違うように思う。

従って、人間のいう正直は、一言にして頑固な気質そのもであり、神の説かれる正直は、竹の如(ごと)く素直であれと諭されることがかわる。即ち、竹は風の吹かれる方向に添ってなすがまゝに形をつくる。雪が降れば素直に垂(た)れ、溶ければまた元に立ち直る姿は、堪忍と辛抱そのもの、強靭(きょうじん)なる精神力を示す諭(さと)しに足りる。また、加工することによって万人に重宝がられる竹細工にもなり、ひとたび立ち割れば、中身は正直の標本を示す腹を割ったそのもの。空(から)の精神を見るといわれる。身慾を捨て、人の心に添う精神を以て素直と説く。それが真の正直と云う。本当の素直。まさに読んで字の如(ごと)しではなかろうか。


人間の正直は、頑固一徹に通じ、神に於ける正直は素直と受けとる。

神と人間の解釈に、これ程の精神的隔(へだ)たりをみるのは、親様が永い間数々お説きなされた言葉は元より、湿布(しっぷ)という病人の手当に至るまで、この世すべてに於ける諭し、また手法に、旧来の概念を覆(くつがえ)す程の精神的革命を余すことなく教示(きょうじ)されることにあって、正直の解釈の如き敢えてこの一事(いちじ)には留まらない。

本当のことをいうと、言うこと自体、心の助けにならないことは今更申すまでもなく、前に述べたとおりである。悪い人間に悪いと云えば、怒りになって返ってくるのは明白で、助けどころかむしろ罪になる。聞くは、我が心の罪として堪能して通った方が、結果的にどれ程勝っているかも知れない。かくいう筆者にしても、至って正直な方で、知っていれば、つい本当のことを言ってしまい兼(か)ねないのだが。

また、頑固な人に、その事実を突くより、あなたは正直だと言ってウソを云えば、相手は助かる。相手が助かることは、それは言わして貰った自分自身の心も助かるということ。多くの人が見逃していることであろうかと思うし、神の眼鏡に適(かな)うものではないかとも思うのである。


親様のお仰せになられる正直とは、思考するに心の諭(さと)しを促(うなが)さられていることがわかる。その諭しを更に掘り下げてみると、かねがね伺っている、人に善いことをしてやったと思うことは、善いことになっていないと云う。これは独善的(どくぜんてき)な偏見さを戒(いまし)められたものとも解かせられるが、考えれば善いことをしてやったという心の自負に埃(ほこり)が付く。少しでも人に善いことをしてやったと思うことは、全部悪いことに通じるかも知れない。

(「誠心」昭和四十六年三月十五日発行)