白鳥敏夫 しらとり としお
1887年6月8日~1949年6月3日(満61歳没)
大正から昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在。
千葉県の長生郡茂原町(現在の茂原市)に生まれ、東京の日本中学、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。
1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格。翌1914年(大正3年)外務省に入省。
1942年(昭和17年)4月の総選挙で、郷里の千葉県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補。定員4人中第3位で当選し衆議院議員となった。
太平洋戦争終結後1945年(昭和20年)11月19日、連合国軍最高司令官総司令部は、日本政府に対し白鳥らを戦争犯罪人として逮捕。A級戦犯の指定を受けた。
その後開始された軍事裁判に出廷していたのの、途中喉頭癌によりかなり衰弱し、裁判後半はほとんど出廷できていないが、裁判では白鳥の活発な言論活動が戦争をあおったものであると指摘された。一方弁護側は「日本のゲッベルスに仕立てようとしている」と弁護したものの終身禁固刑の判決が下った。裁判が終了した半年後の1949年6月に死去した。享年63(満61歳没)。
1978年(昭和53年)10月17日、靖国神社の合祀祭にて昭和殉難者として合祀され現在に至る。
陸軍大佐白鳥敏夫、神鉄三木駅に降り立つ
上海事変、日中戦争、第二次世界大戦、原爆投下を予言