福井勘次郎 ふくい かんじろう
中山みきの長女まさの孫
(『創象』高野友治著による)
存命(ぞんめい)であった中山みきの話では、親神が世界人類をおさめるには、はっきり決まった時間がある。
それに従って中山みきは、明治二十年二月十八日に現(うつ)し身を隠して(死して)存命の親様として働かれた。天理教三十年祭(大正五年)には、神がおもてに現れると予言したとおり、生きたみきは兵庫県三木町(現在の三木市)の主婦井出国子の魂に頼んで、親神の思惑(おもわく)どおり活動して世界の助けを続けた。
その第一歩として井出国子を連れて天理教本部に伴い教祖殿に坐(すわ)らせて、初めて公(おおやけ)に生きた働きをはじめた。これは、みきが生前に予言したことであるにも関わらず、天理教本部は「欲と高慢(こうまん)」から神意を確かめることなく、存命のみきを井出国子とともに、多くの男の力で教祖殿から引き摺(ず)り出して怪我をさせ、その説くことは邪道(じゃどう)であると教団に布告(ふこく)した。
教祖殿から追い払われた井出国子は、その夜中山みきの曽孫(ひまご)福井勘次郎が天理教本部の門前近くに経営していた旅館に一泊し、翌朝存命のみきとともに三昧田(さんまいでん)の教祖の生家前川家を訪ねた。
前川家では、井出国子が生きたままのみきとして家人に接したからか、家人も国子を生きたみきとして大変喜んだ。
その日の夕刻、井出国子は播州三木町の家に帰ったが、その時天理教本部の青年勤めをしていた福井勘次郎は「この婦人こそ、三十年祭に現れると予言された神であろう」と考えて、お伴をして三木町へ行った。そして常時(じょうじ)そばにあって、信仰、行動等を親しく観察して、その真否(しんぴ)をたしかめた上で、遂には天理教本部には帰らず一生を井出国子に捧(ささ)げた。