神さんの網にかかって

お祭りの日には、神さまの神殿に集まった。親さん宅では、一度に数百人泊っても、旅館なみにもてなすだけの用意をいつも整えていた。信者は、温泉旅館に湯治に来たようなくつろいだ気分で、談笑し、御馳走を食べ、酒を飲み、夜は歌ったり踊ったり、喜びの限りを現した。

親様は、集まって来た信者に、よくこう言った。

古いが古いのではない。新しいが新しいではない。古いのも新しいのも、はじめての人間も、みんな一緒や。神さんのところでは、みんな同じや。区別というものは、ないぜ。

また、

あんたらが来たくて来たんのとは違うぜ。わしが招いたんや。あんたら、みんな、神さんの網にかかって、引き寄せられたんや。だから、網を外して逃げようとしてはあかんぜ。どうやらみんな、神さんの網にかかって、しまったというような顔をしとるな、ははっは。

だから、泊っていく信者、日帰りの信者、老若男女の区別なく、みんな同じ取り計らいであった。永年の信仰でなれなれしく振舞う信者、初対面でおどおど不安げな信者に対しても、一様に、懇切丁寧に食事のこと、お風呂のこと、寝間のこと、いたれりつくせりの接待をして、金持ち、貧乏の区別をつけることはなかった。

余興場では、信者たちが芝居や万才、歌舞音曲を披露した。見物にまわる信者には、茶菓子や酒を振る舞い、みんなが楽しめよう工夫されていた。時には、親様が、信者ひとり一人に酒を注いて廻ってから「さあ踊りなはれ」ということもあった。歌ったり踊ったりしている場所が神殿であっても、親様がその輪に加われば、みんなの気風も変って、何もかも忘れて、熱気をはらんだ素直な喜びの中で、歌と踊りの絵模様が展開された。

親様は、いつでも、お祭りに集まって来る人たちを、本当の神としてもてなすことで、みんなも本当の神になり合って、喜びと楽しみを分かち合うよう、仕向けていたように思う。

神さんは、いつも人を神として崇(あが)め、尊敬の礼を尽くし、丁寧に対応した。