感想
私は、神様の教えに帰依(きえ)している一青年です。先程、誠心の九・十月合併号を読みました結果、急に何か書きたくなり、次のような感想文を綴(つづ)ってみました。ふだん文章を書いたことがないので、読みにくい点があるかもわかりませんがお許しください。
私は従来、信仰というものには全く関心がなかったので、神仏(しんぶつ)に手を合わせたことがありませんでした。ところが、或(あ)るとき、物見遊山(ものみゆさん)のような気持で、母に連れられて播州へ行ったのが奇縁(きえん)となり、これが二度三度と度重なる中、年寄りの話している話に興味をもちはじめるようになりました。これが信仰というものかどうかわかりませんが、私にはよい勉強となったようです。
少なくとも、短気な私の気持ちが静まり、議論をしても第三者的な立場にたって冷静に話を聞くことができるようになったばかりか、的確(てきかく)な判断ができるようになったことです。これというのも播州へ行き、皆さんの話に耳を傾け、ときには私なりの意見なぞを聞いていただいたお陰だと思っています。
私は、春秋二季の例大祭に播州へ参りますが、前記のようなお話や経験談は聞けても、神社独自の教義(きょうぎ)なぞ聞けないのが残念でなりません。私達のような青年達は、教えの基本となる教義や、教祖の生いたち、神社の組織や歴史等を緊(しま)り頭の中に刻み込んでおきませんと、私達の仲間や第三者に話すことも宣布(せんぷ)もできません。先生方は私達のような次代を荷負う青年達のいることを忘れられているのではないでしょうか。
「聞きたくば、尋(たず)ね来るなら言うて聞かす」という御言葉は、天啓のあった教祖にして初めて言えることなのに、自分達の不勉強と不精(ぶしょう)さをも顧(かえり)みず、この御言葉を盾(たて)にして、腰を上げぬ先生方にはついてゆけないような気がします。聞くところによれば、親様は高齢をもいとわず病気で倒れる直前迄、全国を飛び廻っていられたと云うことではありませんか。
年二回播州まで行き、ただ手を合わせて祈ってくるだけでは、私達青年にはもの足りなさがあるのです。もっともっと現代的な感覚で教え導いてもらいたいものだと思っています。教えと言い、真理と言い、道は一つしかないのでしょうが、時の流れは早く、旧時代的なものの言い方では我々青年を引張ってゆくことはなかなかむずかしいのではないでしょうか。
だから先生方は、教えなり真理なりを現代的な感覚でとらえ導いて下さることが急務のように思います。先生方が古い型から抜け出し、現代感覚に目覚めて導いて下さったときこそ、我々青年は初めて耳を傾け、考え、判断し、自己の歩むべき道に精進(しょうじん)できるものだと信じています。そして、更に先生方は、我々青年の考えている善悪(ぜんあく)を判断し、助言して下さるのが務めではないかと思います。
近頃「断絶」という言葉をよく耳にします。老年と青年の断絶、親と子の断絶、何れも年齢的なへだたり、双方の勉強不足、双方の思いやりの不足が大きな原因のように思われます。宗教とて例外ではないように思います。
私達青年は前向きの姿勢で先生方の意見を聞き、よいことは何でも吸収しようとする心構えをもっています。しかし、先生方自身が少しも青年達の気持ちを理解せず、或る人は有りもしないのに霊感があるようなことを云い、或る人は神がかったような予言を公然と口にするようでは、現代青年はついてゆけません。もつともつと現実に足をふんまえて、心の導きをして下さることのほうが大切のように思います。そうしてこそ、断絶がなくなり、現代青年達が忘れかけようとしている、親を大切にすること、兄弟愛、夫婦愛、友人愛、そして仕事を愛する気持ち、国を愛する気持ちが自然に生まれてくるのではないでしょうか。
私は旧臘(きゅうろう、新年になってから)交通事故に遭い、怪我をして十二日間程入院しました。入院中、母は元より母の兄弟、知人、親様の信者の方々、そして私の見覚えのない人達までが、毎日のように見舞いにきてくれました。このときほど母や親様に感謝する気持ちで一杯になったことはありません。これも私に徳があったのではなく、母の徳が厚かったればこそ、沢山の人達が励まし、力づけてくださったのだと思っています。
信仰に感謝は切り離すことができませんが、このときくらいに人に感謝することがどんなに大切なものかと知らされたことはありません、これもみな親様の信仰をしたお陰ではないかと思っています。
宗教と感謝とが表裏一体のものであることは前述の通りですが、現代の社会生活をするためにも感謝をするということが、どんなに大切なものであるかということを知らされます。
若者達よ、身近かなものから一つ一つ勉強してゆこうではありませんか。そして神社の大成を期すためにも、自己の精神的なものを磨(みが)くためにも、信仰にこだわらずお互いテーマを出し合い、先生方を困らし、意見を聞かせてもらおうではないか。また若者は若者同志で話し合ってみようではないか。
誠心を通じて意見の交換をしよう。春、四月播州で会おう。
(「誠心」昭和四十五年三月十五日発行/佐野敏美 様)