医者に見放された重病人(じゅうびょうにん)が、戸板(といた)にのせられ汽車で運ばれ親様の家についた。
親様は、その瀕死(ひんし)の重病人に手をかける前に、まず風呂場に案内させ、付き添いの人達をして、ゆっくり入浴させるようなことをした。病人は、入浴をすまして浴衣(ゆかた)に着替えるとそれだけで死や病気を忘れたかのように、心も気持ちも身体も健康になったように一変(いっぺん)した。
親様の「おたすけ」というのは、手を使うということだけではないのである。助けようと思えば、その人に「声をかけるだけ」で、「目を向けるだけ」で助かったのである。また、現実に親様の目の前に居ない人でも、頼まれた人の話だけで即座に遠方にいる見知らぬ人を助けることもあった。
親様の心のはたらきは「振動」であるから、病人がまことの心で祈ったり願ったりしたなら、必ず親様に通じ、親様は手など使わないで助けようとしたのである。親様はいつでも「人の心次第」のおたすけをしていた。
大正の末期、名古屋の開業医が胃がんで親様をたずねてきた。仲間の医者の診断や自覚症状からも「神頼み」より外はなくなっていた。
ところが親様はその胃がんを患(わずら)う医者に「赤飯を食べろ」というのである。親様が心配しないで赤飯をぎょうさん食べろとすすめるので、その医者も止むを得ず親様のいうだけの赤飯を食べてしまったのである。すると、次の日もその次の日も、同じ量の赤飯を親様のいうとおりに食し安心して数日を過ごし帰っていった。そして、いつの間にかその医者は病人ではなくっていた。
昭和十六年一月、ある陸軍大佐は、胃がんで休職明けが近づき「退役(たいえき)」という瀬戸際(せとぎわ)の状態であった。
親様はその大佐に向かって、
あんたはん、お父さんも胃がんで死んだなぁ。おじいさんも胃がんで死んどるやないか。もしあんたが胃がんで死んだら三代続けて胃がんで死ぬことになるなぁ。そうなっては、あんたはんの子や孫が青年期になったらみんな「自分も父や祖父と同じように胃がんになって死ぬか」と思い込むようになってしまう。そんな可哀相(かわいそう)なことになってはほんまにつまらん。
ようし、助けてあげよう。その代わり一つだけ「悪いことを」を言うぜ。
あんたはん、家に帰るとむずかしい顔をして、奥さんや子どもをきつい言葉で叱(しか)りつけてるなぁ?それだけは止(や)めてくだされ。お頼みします、と。
これだけを告げて、はじめて大佐の身体に手をかけ、真剣な表情に変わっておさずけをした。
親様は、胃がんのある腹部を念入りにさすった。そして三日間一日に三度、焚き木(たきぎ)で背中を温めるよう指図(さしず)した。また、酒煙草(さけたばこ)と玉子牛乳肉類を禁じ、魚少々と野菜を食の主にするよう注文をつけた。
後にこの大佐は、日米開戦後聠隊長として出征(しゅっせい)した。終戦後(昭和二十三年頃)無事に日本に帰還。昭和四十七年の時点でも消息があったとされている。
この陸軍大佐の場合、親様の教えも信心(しんじん)のことも何もしらない。それでも親様の心が動いたならば、ほんの僅(わず)かな時間あっただけで、不治の難病でもたすけ上げてしまうのである。