人間というものは、肉体の関係では循環の理によって死んでしまい、個性的には一代限りであるが、心は肉体の死と共に空中に飛び去り、神心のままに空気の層序(そうじょ、地層が重なる順序のこと)の世界に密着するのである。
この、地上を離れた人間の心は、本来の存在である神心の振動を具象化(ぐしょうか、姿を持つ具体的な形として表現すること)したものであるから、不滅(ふめつ)の運動を続けながら、決まった空気の層序の下(もと)を自由に飛び廻っているのである。
親様は、こういう人間の心を、つまり独立した人間の心を、魂(たましい)とも、霊とも、心霊神霊(肉体を離れても存在すると考えられる、超現実的な心の主体)ともいっている。そして、こういう独立した諸々(もろもろ)の心霊の存在する空中を親様は「霊界」といっている。
この霊界は空気の層で、沢山の「層」に分かれていて、霊はその種別によって常住(じょうじゅう)の層が決まっているとのことである。親様は、いい霊ほど「上層の高いところ」にいるという。いい霊という意味は、地上に在(あ)ったとき、人間の心として、心に埃(ほこり)をつけなかったり、反省して心の革命をし続けていて、清くて明るい魂ということである。むろん汚い心ほど地上に近い空気の層にいて、中には最下層の動物の霊と雑居するような霊もあるということである。
霊は、肉体という「条件」に制約されないから、空気の層の中で、上に出ることは出来なくても、地上に対しては比較的自由に飛来(ひらい)してくることができる。親様は、実にたびたび、私たちに、死んだ人の霊が夫や妻から離れなかったり、子どもの廻(まわ)りを心配そうに飛び廻ったりしている光景のことを話していた。
霊は、ある特定の個人の人生問題解決を「指図する」場面もある。人には見えなくとも親様には、その霊が地上に生きていたときには誰の霊か、生きていたときにはどんな人間であったということがはっきり判っていた。
しかし、どんな霊が人間の身辺に現れようと、それを唯物的(ゆいぶつてき)に把握することは出来ないし、霊自身も、唯物的に自己の存在を表現できないといった。ただ、人次第、心次第で、そういう霊と交感することがあり得る、とも親様はいった。
ただ、空中の霊が、人間界に突如現れて、何か物理的現象を誇示(こじ)するようなことは絶対にないという。もし心霊が、衆人(しゅうじん)を前にして、誰でもわかるように声を発したり、器物(きぶつ)を動かすようなことがあれば、それは心霊を口実(こうじつ)にした手品の類(たぐい)であると断言していた。
親様曰く、
霊の中には、天界(てんかい)の近くまで到達できる霊もあるぜ、そういう霊が、天界の相談ごとを小耳(こみみ)に挟(はさ)み、天界から人間界に降りてきて、誰かに引っ付いて、まことしやかに神様ごとや、人間界のことを「撒き散らす」ということはあるぜ。
霊視・千里眼・病気治し・予言など