明治四十一年、旧の三月六日より御身上は神懸かり、「この宇宙には何にもないで、あるのは振動だけや」と申され、全身に一秒たりとも止まることのない振動があり、振動そのものは無限の力の伝播(でんぱ)であるから、神様には人間にはない特別な力があって然(しか)るべしと考えられる。
事実、神様は途方もない力の持ち主であった。
時には、座ったままで後ろの障子(しょうじ)の桟(さん)に手を当てると、その障子が微(かす)かに振動しはじめる。次の瞬間は、家全体にその振動が伝わるであろう。障子やふすま、柱や硝子戸(がらすど)の揺れ合う音が相当大きな地震が起きたように鳴り響いて、いわゆる家鳴り振動が始まるのである。親様が指を障子から離すと、それと同時に振動も即座に収まる。親様の御身体に現れた不思議のいろいろというものは、直接見せて頂かねば信じることができないほどである。
親様のご理想は、太陽の万物を照らすが如く、世界人類の平和と幸福である。そしてこの理想は、時間的に永遠であるが如く空間的には不偏である。
親様が神懸かり以降四十年間、官憲(役所、役人、警察、いわゆる官憲の手先)に対し、社会に対して執り給(たま)いたるは、終始一貫抵抗主義であった。しかし、人類を救済し給う神の全能威力には何物も敵対するものがない。
天啓の教えが、世界一列を救済するも、皆神の御意(みこころ)でなければ何事もできない。これを思えば、日本民族ほど恵まれた民族はないと思われる。
およそ、この世の中で、人を助けるという心ほど、罪(つみ)な心がおますかいな?人を助けるのではない、人を助けさせていただくのや。人間に人を助ける力がおますかいな?みんな、神様のお陰で人を助けさせて頂いて、因縁(いんねん)を切らして頂くのですから、お礼を言わなければなりません。それに、俺が助けてやった、俺が救うてやったという高慢(こうまん)な心が出るから、かえって因縁を積むのです。
理を聞かした人が親ではなくて、理を聞いて頂いた人が親である。何故(なぜ)かと申せば、先方で聞いてくださったから、こちらの因縁をそれだけ切らして頂いているのですから、先方を親として立てなければなりません。
しかし、親と申す方は、この世に月日両神。これが実(まこと)の親。後はみな、一列きょうだいです。親も子もありません。親というのは理が親ですぜ。理より外に親はありませんぜ。と、仰せになりました。