頼りないのは自分の心

播州という神様の地場は、まことに不思議なところである。

どなたにも御経験があることと思うが、行けば、必ず誰かしら自分の心に叶った、実のあるお話が伺えるものである。最近の帰播で、私にとって大変有益なお話しを、或いは古い方から伺ったのでお伝えさせていただく。


私は今まで、人間の病気というものは、神様が治して下さるものとばかり思っていた。しかし、近頃になってからは、そうでないことがわかってきた。人間は神様の分け身魂いである以上、魂は神からいただいたもので、この世にある限りは自分のものである。即ち、神の分身である。神は魂を人間に分けてやったので、貸(か)したものではない。貸したものなら治してもくださろうが、やってしまったものであるからには、神御自身の力だけでは治せない。それができたら、第一人間が横着になる場合が生じる。

東西南北を以(も)って、神の所在を明らかにしたと思われる御言葉に、「神というたら、東にもなければ西にもなし、北でもなければ南(みな身、皆の身)にある」の如(ごと)く、人の体を以て社(やしろ)とし、まごころを以つて神と諭(さと)されている以上、治す力は人間自分自身だけが持っているのである。

ただ、村のお地蔵様が、方角の一つの道しるべになっているように、病気を治す道しるべとしての方向、即ち心構えはひと通り教えて下さってはいるが、それを治すことは自分の心の誠しか外(ほか)にない。(医学的見解である、人間の持つ自然治癒力にある意味で合致している)


神さんというものは、まことに大(おお)らかというか、何か自然的な面があって、人間のように無意味な性急(せいきゅう)さの諭(さと)しはなさらない。人間は人を見ず(勿論、心は分らぬ故)思う余り、自己の精神尺度に合わした諭(さと)しをする場合があるが、神さんは対手(相手)の心の時点に合わせるだけで、只今の段階しか説(と)かない、勿論体験上とか、私見(しけん)の向上によるある段階を越えての質問に対しては、それなり相応したお答えはして下された。

私が、過去十年間病んだ神経痛の場合も、「そのうちに治る」と、ただ頷(うなず)く程度の軽い反応しか見せていただけなかったが、よくよく困り果てて伺った時、はっきりとした方向と事の善悪を諭して下された。

人間が、精神的にも疲労困憊(ひろうこんぱい)のその極に達した時は、ちょうど山のりょう線に辿(たど)り着いた時のようなもので、あとに待つのは一挙に下がことができる楽な坂道である。実際には、その下がる道にも幾通りかの道がある。どの道を選ぶかは、いづれわかることであるが、病いの道中(どうちゅう)においては、どうかこれ以上悪くならないようにと神に願う心の示唆(しさ)が同時にあった。


神様は、気が長いというか、或いは厳しいとでも申すのか、人間がその心になるまで何年、いや何十年でも待つ。人間は急ぐがあまり、時には見境なく、芽が出たばかりの心に強い肥料をかけるようなことを言ってしまったりするが、神様はそういうことはなさらなかった。

対手(相手)が悟れなくとも、決して咎(とが)めだてたり、お節介的なことはなされず、終始笑いながら合わせておられた。傍目(はため)からはまことに頼りなく映る場合もあったろうが、実際頼(たよ)りないのは自分の心の方である。

(「誠心」昭和四十七年九月十五日発行)