御言葉に、六十才迄は誰でも生きられる。あとは、心がけ次第で八十五才以上までも生きられると言われている。
また、怒ると栗つぶほどのものが血をよごし、早死(はやじ)にするぜとも言われている。
以上の御言葉を総合して考えると、心がけとは怒らぬことであり、長生きの秘訣は怒らぬということにあるようだ。
口を開けば、怒ってはいけないと教えられ、教えられている私達、怒らねば長生きできると知りながらどうして怒るのだろう。怒るということは、一人ではできない。必ず相手がいる筈(はず)である。そして、相手が一人である私憤(しふん、個人的な事柄に対する怒り)の場合もあろうし、複数の社会に対する公憤(こうふん、社会の悪に対して、個人の利害をこえて感じるいきどおり)の場合もあろう。
人間が怒る場合、どうも次のような原因があるようだ。
その一つは、根も葉もないことを言われたとき。もう一つは、本当のことをズバリ言われたときのように思われる。しかも、本当のことを言われたときのほうが怒る率が多いのはどうした訳だろう。
皆さんも、沢山の御経験をお持ちの筈だが、私は次のような例を挙げてよく話をする。
私がまだ若かった頃、悪遊びをして帰る。悪遊びをして帰ってくるくらいだから、後ろめたい気持ちがある。俗に、脛(すね)に傷を持って帰宅する。そんな時、黙って迎えられると薄氷(はくひょう)を踏むような気持で床につく。そして、二度と再び悪遊びはしまいというような気持になる。
ところが、家内や家族の者から「どうしてこんなに遅くなったのか」と根ほり葉ほり聞かれると、言い訳ができないだけに腹が立ってくる。そして、「遊んできたのでしょ」と言われ、脛の傷に指を突き込んで引き裂くように追求されると痛くてしょうがないから、遂に訳もいわずに怒ってしまう。本当のことを言われるほど怒ってしまうものだ。だから、追求もほどほどにしなければならない。
私が臍曲(へそま)がりのせいかも知れないが、家内や家族のことを考え、あゝもしてやりたい、こうもしたやりたいと思い、それを実行に移そうとするやさき、こうしてくれ、あゝしてくれと言われると腹が立つ。考えの先手を打たれるのが面白くないからだ。こちらが考えている真意(しんい)を言い当てられると怒ってしまう。
堪忍(かんにん)といい、たんのうといい、みなが怒らぬことを教えられたので、夫婦の円満、家族の円満も、「人が神だ」ということも、一貫して怒ってはいけないという教えに通ずるような気がする。どうぞ皆さん、怒らぬように努め、一日でも長生きするようにしようではありませんか。
何事も堪忍が福の神 楽しみや
(「誠心」昭和四十六年三月十五日発行)