信者様の記録から、親様の教えを読み解きます。
まごころ日記(一〇)T生
私は終戦の翌年、昭和二十一年の一月、上海(シャンハイ)から幸運にも中志那第一回の帰還船に乗船し復員した。
郷里に一旦落付いてから、その月の中に播州へ御礼参りに伺った。
確かその頃は、新旧円の切り替えという噂が国中に広がっていた。三年前の昭和十八年、配偶者のことでお目にかかった時の親様のご様子と少しも変っていなかったが、何か安堵(あんど)に似たものを感じたことを覚えている。
仕事のことで、元のところへ勤めたいと申し上げたところ、親様は、その方がよい、そうせい、そうせいと何度も頷(うなず)かれた。
その翌日、播州へは初めてという物腰の軟らかい如何にも裕福げに見受けられた老夫婦が、親様に折り入ってお伺いしたいことがあると言ってみえられた。
偶然にも傍(はた)で、話の様子を聞かせていただいたが、その方の申されることは、新円切替を前に、手許(てもと)にある三十萬円のお金を三つ分け、それぞれ物に代えて遺(のこ)そうというもので、物の選定と是非(ぜひ)についてのお伺いだった。当時の三十萬円というお金は今のお金にして億に近い莫大な金額であったので、その方にしてみれば大変であったのだろう。
私は、親様がどんな御返事をなされるかと思って耳を傾けた。
やや(時間が)あって、口を開かれた親様は、この問題とはおよそ関係の無いことをいきなり仰せられたのだった。
「この人はなぁ、正直な人やで────」しかも、しみじみとした口調でおっしゃる親様のお言葉は、あたかも列座の人達に、改めて何かその方の人となりでも紹介するかのような口ぶりだった。
しかし、今までにも何度も経験したことだが、私はその場の雰囲気から御言葉を額面通り素直に受け取れぬ感じだった。それは、親様が先方に指を差し向けたまま、周りの人々に微笑で言われる御様子に言い難い誇張感が伺われたためであったからである。成る程、その場は、誰の目にも老紳士が褒(ほ)められ、如何にも面目(めんもく)をほどこしたからにみられた。
けれど、私には温和な中にも、どことなくもの堅(がた)く、且つ頑固げに映る感じと、この世は物質以外に何も無いという現実主義的な面が見受けれらたからである。
次に、親様が仰せになられたことは「わしもな、これこれの不動産と何がしの(数字を明確に現わして居られた)お金がある、そやけどな、いま政府が戦(いくさ)に負けて貧乏しているさかい、わし、そのお金な、全部政府にあげてしまおうかと思っている────」の意味のことを申されてから、先方の問いに対してひとつひとつお答えになられていた。
親様に何かをお伺いするとき、伺う者が「白紙」でお尋(たず)ねすれば、真剣な御指図をして下さる。しかし、伺う以前から心に決め込んでかかるような問いに対しては、敢(あ)えて反対こそしないが、本当の答えは出していただけぬように感じされた。
私は若いときから、親様の一言一句には魂を打ち込んだ。そして、常に全神経を働かして喰い入らんばかりにして聞きいった。年を経(へ)るに従いお話のみならず、私は一挙一動に至るまで気を配った。それは、全く無駄と云うものが無いことを知ったからである。だから、親様がなさる些細(ささい)な仕草まで見逃さなかった。人間のしゃべる話は、すべて自慢、高慢(こうまん)が付きもので、一切が自己本位であるが、親様のお言葉にはそれがなく、すべて”くに”を思い、人を救おうと思う心以外はなった。
親様は、冗談ひとつ言われるにしても、お笑いなさるにしても、また御立腹なされるにしても、皆それぞれの意義と言外の諭(さと)しがあったからである。従って、親様のお言葉は世界の救いそのものであり。世界の言葉として受け取れるようなものを具備していた。
「私ほど、世界を祈るものはいない」と申されるのは。親神たる識見(しきけん)と共に一つに世界人類の幸福を念(ねん)じる大慈悲心の発露(はつろ)に尽きていると思った。その一旦の証(あかし)となるものは、毎夜の「心のはらい」のおつとめに際してお口から洩れるお言葉で、御承知の方も多いと思うが、「世上人民大切に」という、常に一貫して敬虔(けいけん)な祈りにあった。
(「誠心」昭和四十六年三月十五日発行)