信者様の記録から、親様の教えを読み解きます。
親様のお言葉は、誠にわかり易く、何事も簡単に仰せになられている。そして、その一言一句は、夫々(おのおの)に優れた真理が含まれている。
言葉自体、世上(せじょう)の万民(ばんみん)のことを思い、我が国のことの思いを吐露(とろ)されている。そのことを知っただけでも有り難いことである。あまつさえ、自然の法則に則ったものであるだけに、玩味熟考(がんみじゅくこう)せねばならないものであろう。更にその内容は、人間として実践の義務を負わされているのではないかとさえ思う。
御言葉の偉大さは実際に行ってみて、その利益(りやく)を知り、失敗に及んではその恐ろしさを心の底から学ばされる。更に、お話は最高の常識を以(もっ)て具現され、その核芯にある神意は個々の人間の「心をつくる」など眼目とされているように思う。
「人に言われることは結好(けっこう)やで、けれども人に言うてはあかん」というお言葉は、社会生活上最も身近な問題としても考えさせられるもので、私のような「誠心」の道に程遠い者には、特に心せねばならないお言葉である。嘗て(かって)自己の冒(おか)した失敗から思い煩(わずら)わして、自分なりの悟りを開陳(かいちん)させていただくと、「人に言われることは結好や」と云うことは一つの因縁切りを諭(さと)されており、「云うてはあかん」は、その反対に悪因縁を積む非を咎(とが)められているように思う。従って人に云う時は、極端に云えば天理である「照り返えりの法則」を受けることを覚悟して云わねばならぬし、また自身の心を犠牲のすることを承知の上で言わねばならない。
親様の「あかん」と云う否定的な言葉の恐ろしさは、次のような事柄で知ることができる。
昔、大阪に住む某氏が、安い買い物があり、それがまことにうま過ぎる程の儲け話だったので親様にお伺いしたところ、親様は即座に「それはあかん」と申され、更に「後でごてごてするぞ」と謎めいた笑みを残された。それでも人間の慾(よく)というものは仕方ないもので、親様には内緒で安物を買ってしました。ところがその品は、舟一杯の盗品で裁判沙汰に及んだと云う。親様の言われた「後のごてごて」とは、収拾(しゅうしゅう)のつかぬ儘(まま)弁護士等を頼んだことや解決を見る迄長引いたことを云われたことである。これは物質的な面における場合の証拠であるが、ひと度、精神面に及ぼす場合だったらどういうことになっていただろう。単なる手続上の問題では済まされなかったであろう。
「人間の口には、戸は立てられぬ」と云う諺(ことわざ)の如く、見たり聞いたりすると、言わずにはいられなくなる場合がまゝある。それが社会であり、世人(せじん)の常である。
しかし、「口中の鏡に照らしてしつた(舌)を使え」と云うお言葉から諭(さ)とらせていただければ、人の心を傷つけるような言葉は厳(げん)に慎(つつし)まねばならない。
しつたの「舌」と云う字は「チ」と「ロ」と書く、即ち、地の口で地は慈悲(じひ)、情けに通じ低い心を指す舌は、知ったがなまり知ることの意と云う。耳と目の働きによって心に映したものが、舌の作用によってはじめて言葉になる。舌はものを知る源と悟れるのも、ここにある訳ではないかと思う。その舌を、慈悲と情けをもって使わしてもらうのが、元来(がんらい)人間に与えられたる定めであり、それが誠の本筋と受けとる。
創造の神が、人間にものを喋(しゃべ)らすまでに数千年もかけたと云われる。
思うに、言葉は誠の道具としようとしたので、長い年月をかけた神の配剤(はいざい)だろう。それ故言葉は誠の意を表現する一つの機関であり、その代弁者である。また神の御守護により、天から与えられた人間の特権でもある。しかし、その特権を乱用し、その主目的である誠と違った言葉を用いることは神の秩序を乱すことになり、病気病難、不時災難として現れてくるのではないかと思う。
対人関係や、社会秩序、親様の書かれた御神楽歌三下りの精神から云っても、「舌」と云う字の意義をよく弁(わきま)え、みち(身地)と云う人をたてる心構えも、いつに舌の使いようひとつであると断じられる。また舌は、言葉が成るの「誠」と云う字の成り立ちから云っても、常に人に合わすという精神が舌の課す重大な役割であるということも自ら諒解(りょうかい)できる。それには必然的に心の犠牲が伴わなければならない。それが本来の誠の意味と云われる。
打てば打たれる。言えば言われる。すればされる。いわゆる為(な)せば為(な)されることが、照り返える天の摂理であることを弁えれば、何事も善意に受け取れるだろう。そして、己(おのれ)が心の貧しさを磨(みが)いてゆくことが、この世に生まれた人間の宿命であり、それがひとつの「行」と心得る。
T生
(「誠心」昭和四十五年三月十五日発行)