金がないから

あるとき親様は、神殿で大勢の信者を前にして次のように言ったことがある。

病人が人に助けを求めるのは金がないからや。金がある人なら家で寝込んでいたりせずに、まず医者に行ったり薬を飲む。だから、医者にもかからん病人は金にも困っているんや。

そんな病人のところへ行って、神さまの話がどう、手で撫(な)でたらどうとかいっても無駄や。それよりも金を沢山(たくさん)やって、医者にかかるなり薬を飲むなり、食べられるものを食べ栄養をとって、ゆっくり養生(ようじょう)しなはれというのが一番のお助けや。

金をあげて励(はげ)ましただけで、病人は喜んだり安心して、それだけで助かることにもなるぜ。

また、相手を助けてあげようなんて心は、あかんぜ。助けてもらうのは「自分」や。だからお助けが済んだら相手に向かって「ありがとう」を繰り返すんや。

私のような罪の深いものにお助けさして下さってまことにありがとうございます。あなたの悪いところいただかせてもらって私の罪埃(つみほこり)を少しでも軽くしていただけることになれば、まことに幸せでございます。ありがとうございます。まことに勿体(もったい)のうございます。


親様は、四十年の間、そして死の床に就(つ)く最後の日まで、おたすけをし続けていた。

親様の教えるが如(ごと)く、人が神であるが以上、親様が助けて通ったように、我が心の神に従って、つまり我が心を神心のまことにして、よろずの人を神として助けてあげて通ってもらいたいのが親様の願いである。人間の世界から不幸と争(あらそ)いを除(のぞ)いて、みなが平和に暮らしていくには「みなが神になり合って互いに助け合って」もらいたいということである。

助けるということは人間誰でもできる。自分の持っているものや金を困っている人に施(ほどこ)すことである。ものや金というものは本来神様のものであり、人間は一時預(あず)かって使わしてもらっているだけのものであるから、人のために使わしてい頂いたら、神様も喜び一番結構な使い方になっていると思う。惜(お)しんだり、先のことを心配せず、気持ちよく施(ほどこ)してしまえである。人に与えたものや金が還(かえ)ってくるだろうかと考えたり、感謝の気持ちをどう現わすかなど一切考えるなということである。ただ、与えて相手が喜んでくれたなら、それで良かったと忘れてしまえである(芹沢真一)


親様は、たずねてくる者は誰でも、身上(しんじょう)であれ事情であれ必ず助けた。

ただ、その者の将来までを保証するようなお助けではなかった。

神さまの助けは「一度切り」のものや。助かったことのその先は、その人の心次第(こころしだい)や。どんな人でも頼まれから助けるんや。ただ助けた先のことは神様の領分(りょうぶん)ではない。助けっぱなし。振り向かないのが神さんのきまりや。

玉屋の花火を楽しみに待つ近所の子ども達(昭和十二年四月)