神とは

神とは、分からないものが、神である。この「わし」が分からない以上、人間に解(わか)る訳がないと、何時も言い切っておられました。

理が神、自然が神、月日が神、水火風が神、人が神。誠とは、分からないもの、誠とは、「ま」のこと、誠とは、合わせること、理とは、神様の領分のこと、なって来るのが理であると親様は仰せになりました。

わしは、『明治天皇の御心』と書いた紙を、祭壇のお宮の中に封じ込めて、明治天皇を、神としてお祀りし、毎日、明治天皇を祈っているんや。

天界にいる明治天皇が、昼夜をとわずわしに仰るのや。世界中を見渡しても、貴方より外(ほか)に、この世には、世界の人を助ける者はおりません。そうぞ、ご苦労でも、みんなに代わって、世界を助けて下され、頼みますと仰るのや。だから、わしも神様として、天界の明治天皇を神の座に、お祀りしているのやと仰せになりました。


親様が人に頼まれて病気(やまい)を治されようとする時には、口の中で、まず、こうお唱えになった。

「私のような罪の深い者に、お助けをさせて下さって誠にありがとう。貴方の悪いところを頂かせてもらって、私の罪、埃(ほこり)を少しでも軽くさせて頂くことになれば、誠に幸せでございます。有り難うございます。誠に勿体(もったい)無うございます」

こう口の中で一生懸命唱えながら、身体(からだ)を撫でてあげるのや。相手を助けて上げようなんて心はあかんぜ。助けてもらうのは自分や。だから、お助けが済んだら、相手に向かって、有り難う有り難うを繰り返すことになるんや。また、人を助けるということは、神様のお力を頂いた手で、病人を助けるということにらるのやぜ。

神の教えに従って、夫婦が仲睦まじく暮らし、商売が繁昌して、土地、ところの模範になることも大切なことや。そうしたら近所の人や遠くの人が、どうしてそうなったんか、見たり聞いたりしたくなるやろ。それが何よりのお助けや。

人から誉(ほ)められたり、真似したいと思われるようになったら、一番のお助けやないか。

病人を探し出して助けようとしたり、信仰を勧誘(かんゆう)したり、余計なお節介はせんがよろしい。わしが助かり、わが家が助かったら、それが何かにつけお助けになるのや。

また、神様の助けは、一度切のものや。助かったことのその先は、その人の心次第や。どんな人でも頼まれるから助けるのや。助けてから先のことは神様の領分ではない。神様はただ、助けるだけや。今、助けるだけや。わしが助けたいから助けると受け取ってももらってよろしい。


(親様の言われることが、何となく分ったようではあったが、また尋ねた。「それでは、親様は、助けた人がどうなるかを考えないということでしょうか?」)

そうや。助けっぱなしで、説(と)きっぱなしや。「振り向かない」のが、神様の決まりや。

わしは、人を助けて、その代わりに信者になれとか、わしの教えを聞いてくれとか、そんなことのためにこの世に現れたのではないぜ。一人の信者も要らない。信者をつくったり、宗教を拵(こしら)えたりするために出て来たのとは違うぜ。わしの言ったことを、省(はぶ)いたり、付け加えたりしないで、言った通り、そのまま人に伝えるのや。また、人間が拵(こしら)えた教えや宗教はあかんぜ。人間心で拵(こしら)えたものは、誠がないからあかんぜととも仰せになりました。


朝日神社に向かう大勢の信者様(昭和三十年頃)

親様は、確かに、存命中、何万人という人をお助けになさったが、「助ける」ということは、親様にとっては、人間側から見るほど、当然のことであったり、簡単気軽なものではなかったようである。

親様は時々、「義理ほど辛いものはない」と、お漏らしになったそうである。