千古の教訓

今の天理の教えは、内を不仲にしても、世界の人にどれほど笑われても、神様にどれほど苦をかけても、自分さえその日を渡りさえすれば良いと思うのが、天理の道のように思い、もったいない月日に苦労を懸けます。

それが、助けの道には見えません。

天理の助けというものは、自分その日を誠真心になりまして、世界難儀不自由を助けて暮らし、または、人様に自分の誠を聞いてもらうが天の理

第一には、月日の入り込みの話

第二には、身の内の話をして

第三には、内々睦まじゅう暮らす話をして

第四には、世の中の話

第五には、五倫五体の話をして

人様の心を安らげて、誠の道が天の理の道なりと教えをすれば皆が勇む。

皆が勇めば神も勇みをかけて、世界の助けが十分できまする。


人間身の内に、五倫五体はどこにあると思いますか。

その五倫五体のあるところが解りさえすれば、欲の話はできんものと思います。解らんのにもかかわらず、欲の話を致しますれば、自分の心に障(さわ)りがつきます。その障りが自分で懺悔(ざんげ)つかん時が来る。

その時、自分が悪いと思わずに、ただ月日の不足、それが月日には残念がゆえ、それゆえにまたこの度真心尋ね、月日の入り込みを十分教えをすれども、それにも気づかず、ただ疑う事ばかし、月日あると思う者あれば三下りの、神楽歌を心に弁(わきま)え、神様の誠の教えをせにゃならん。真心を尽くさにゃならん。その月日の教えた三下りの神楽歌を読めば何事もよく解ります。

それを弁(わきま)えれば、月日の誠を解く人がどこか現れて下さるには違いないというて、尋ねる人は誠の人でありまする。それに疑う人は天理の道を守る者とは違うかと、神はそう思いなされます。


人間身の内月日の入り込みは、何の御守護と思いなされますか。

第一には、息の守護です。

突く息は月様(つきさま)、引く息は日様(ひいさま)。

その引くと突くとで、この世の渡りを致します。内々に致しましても、突くと引くとがあればこそ日々が渡れます。

その突くと引くとを弁えれば、どのような事でも弁えがつきますゆえ、こらが世の一の宝にして日々を暮らし、心勇んでその日を大切にして世を渡りなられませ。


※五倫(ごりん)儒教で、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の五つ<五常>

※五体(ごたい)頭、頸(くび)、胸、手、足<全身>

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